主に江戸について

主に江戸後期の、主に庶民の暮らしを調べながら書いてます。堅苦しくなくポップ(?)に☆読んだ本のメモが中心。

「自虐的ユーモア」は愛すべき日本人の特質である =『逝きし世の面影』第1章より=

最初の1冊として、大好きなこの本をもとに

第一章から順に読みすすめながら書こうと思う。

 

 

 

 

まず『逝きし世の面影』の堅苦しい紹介を。

 

 

まず大前提として、この著書は

江戸後期〜明治前期にかけて日本を訪れた

欧米人の目から見た日本の姿を通して、

 

著者:渡辺京二氏がいうところの

「近代日本の前に滅んでしまった1つのユニークな文明」

としての江戸の風景を描き出したものである。

 

 

そして、その欧米人たちは

 

自文化に対する自負は強烈で、ごく少数の例外を除いて、日本文明に対する西洋文明の優越を心から信じないものはなかった。

だが、それゆえにこそ、そういう強固な優越感と先入観にもかかわらず、彼らが当時の日本文明に讃嘆の言葉を惜しまず、進んで西欧文明の反省にまで及んだことに、われわれは強い感銘を受けずにはおれない。

 

ということで、この時代に日本を訪れた欧米人たちは

日本に対して非常に好意的な印象を残していたらしい。

 

 

具体的な記述として、日本は

 

妖精の棲む小さくてかわいらしい不思議の国であった

 

蒸気の力や機械の助けによらずに到達することができるかぎりの完成度をみせている

 

この町でもっとも印象的なのは

男も女も子どもも、みんな幸せで満足そうに見えるということだった

 

 

と、ざっくりとこのように欧米人の目に映っていた

ということであり、

 

近代以前を否定しようとする向きのある

現代日本人の視点からではなく、

文明の構成員であるためにその文明の特異性を認識しづらい

当時の日本人の視点からでもなく、

 

異文化としての日本を見聞した

欧米人の目を通して、

その江戸という文明を鮮やかに描き出した名著である。

 

 

 

・・・と、いうAmazonのレビューみたいな紹介をした上で。

 

 

 

ここでは、第1章の

ほんのほんの一部だけをとりあげて書こうと思う。

 

 

 

江戸独特のユーモアについて

 

 

私が面白いと感じたのは

 

江戸時代の日本人にあった

独特のユーモアのセンス ー 自己客観視にともなう笑い

という件である。

 

 

例として、

2つの場面が挙げられていた。

 

1)

2人の英国人が寺から出る際、

何千人という群衆がそれを見に集まった。

そこで、警視たちは2人が門の外に出るやいなや

門を閉ざし、群衆を境内に閉じ込めてしまった。

それに気付いた群衆から、憤慨の声と同時に笑い声が起こった。

 

2)

馬の乗り方の違いが原因で、日本人の役人と英国人が争うような形になった際、

この役人が突然大声で笑った。

その笑いは、英人の自分勝手な振舞いに対して笑ったのではなく

その振舞いをとめられず困惑している自分自身がおかしくて笑ったのだ。

 

 

つまり、困難だったり憤慨する状況に置かれたときに

客観的な視点で自分を観て笑うことができる、

という「独特のユーモア」があったというのである。

 

勝手にセリフをつけるとすると

 

1)

町人A「なに閉じ込められてんの自分ー!」

町人B「自分だってー!超はりきって早起きしたくせに、ださいんですけどー」

 

2)

役人A「なになに、なにワタワタしちゃってんの自分ー!超かわいいんですけどー!」

 

みたいなことだと思う。

(違う?)

 

 

これは「自虐のユーモア」と言い換えてもいいと思う。

 

*自虐ネタ=自分を貶(おとし)めるネタ

 

つまり、自分の身にふりかかった不幸を

笑いで包み込んでしまえる、というユーモアである。

 

 

 

自虐的ユーモアについての考察(湿度の違い)

 

 

ここで、私は

「自虐的な笑い」についての認識を改めないといけない。

 

 

単純に言えば「自虐的な笑い」は嫌いだった。

私なんか・・・とウジウジしたりとか

自虐的にヘラヘラ笑う人を見ると

「セイ!」と爽やかに顔を蹴り飛ばしたくなるくらいだった。

 

 

けど、先の2つのエピソードに込められている

「自虐的な笑い」は、それとは違っている。

 

感覚的にいうと、湿度が違っている。

 

私が嫌いな、ウジウジやヘラヘラとした自虐笑いは湿度が高く、

江戸のそれは湿度が低い。

前者は「ジメジメ」、後者は「カラッ」である。

 

 

そして、この江戸のカラッとした笑いは

きっと、どんな状況にあっても生きていることを楽しむのに

一役買っていたのではないか、と思ったのである。

 

 

 

私が自己ベストを更新した話 

 

 

ちょっと話はそれるが、私の話になる。

 

 

私は、友人に「見た目と違って男前な性格」とか言われていて

物事をポジティブに受け取るよう方だし、

憤慨するような出来事があってもけっこうスルーできる。

 

が、この間、久々にものすごい落ち込んだ。

抱えている仕事が多すぎて、ミスを連発しまくり、

取り返しがつかない(とそのときは思った)ミスをしてしまった。

 

夜中の12時に、一人きりのオフィスで精神の限界点を突破した私は

「もう嫌だーむりだーーーー」と信頼する友人に電話をして愚痴りまくった。

 

友人は私のウダウダした愚痴をずっと聞いてくれて、

「今までも超忙しくても何とかやってきたけど、

 今度ばかりは超無理!死にそう!」

という私にこう言った。

 

 

 

「・・・自己ベスト更新しましたね」

  

 

 

その一言で、私はなんかおかしくなってしまい

笑いがこみあげてきて

 

「やったー!自己ベスト更新した!」

 

みたいなテンションになってしまった。

  

 

 

再び、江戸独特のユーモアについての考察(自虐は豊かである)

 

 

で、江戸独特のユーモアの話に戻るが

この私の感覚と似ているんじゃないか

と思う。

 

 

私が「自己ベスト更新」と言われたときに

それまで主観的な落ち込みにどっぷり浸かっていたところから

ふと客観的に自分を見ることができて、

その状況に笑いがこみあげてきたような感覚。

 

困難を友人と笑いあうことで

心の負担が軽減されていくような感覚。

 

 

この感覚があれば、

日常で起こるレベルの困難はたいがい乗り越えられるような

気がするのである。

 

いやきっと・・・かなりのレベルの困難も

この笑いはそれを乗り越える助けになるのだと思う。 

 

 

今、世の中には(一部かもしれないが)

ポジティブな言葉を発しましょう、

物事をポジティブに受け止めましょう、みたいな

【ポジティブ崇拝スピリチュアル】が蔓延している。

 

・・・というか、どっちかというと私もこれに近いといえば近いし

それを否定するわけではないが、

 

物事をポジティブになんか受け止められないときも

山ほどあるのである。

 

 

そんなとき、

 

困難と思える出来事を笑いとばせることは、豊かである。

そして、自虐的に笑い会える友人がいることは、豊かである。

 

 

ジメジメした自虐は「セイ!」だけど、

カラッとした自虐は、弱い自分も包み込み

人生を肯定してくれる温かさがある。

 

 
どんな困難も、笑い飛ばせる心の余裕を持ちたい。
 

そして、愛する人たちが困難に陥っているときは 

それを温かく包んで笑いに変えられるような器をもちたい。

 

 

 

ということで、今日感じたことの結論。

 

  

この「カラッとした自虐的ユーモア」は

愛すべき江戸の特質である。

 

そして、これは現在にも引き継がれている

愛すべき日本人の特質だと思う。

本来は。

 

 

が、近年は

ジメジメした暗くてウザい高湿度粘着質の自虐体質の人々が多いために

 

「自虐」という性質は

蹴り飛ばしたくなるほどの否定的な意味合いを

帯びてしまっている場合が多い。 

 

しかし、

自虐的ユーモアがカラッとセンスよく使われた場合には

苦しみにどっぷり浸かっている状態を

客観的な視点にひきあげてくれ、

不幸を含めた人生を比較的楽しいものにするという

素晴らしい効果を発揮する。

 

 

 

個人的に、自虐に対する認識を改め

この愛すべき自虐ユーモアを

今後大いに奨励していこうと思う。

 

 

 

あくまで

ジメジメじゃなく、カラッとね! 

 

 

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※カラッとした本日の空!

 

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