主に江戸について

主に江戸後期の、主に庶民の暮らしを調べながら書いてます。堅苦しくなくポップ(?)に☆読んだ本のメモが中心。

江戸庶民の「みんなが楽しく過ごすための暗黙のルール」について

※2015/05/20追記。

読み返して「なんか違った!」ってところがあったので、記事の一部とタイトルを変更しました。

・・・ってけっこう大幅に書き換えました、すみません・・・!

一度読んでいただいた方、おヒマでしたらもっかい読んでみていただきたく。。

 

 

 

 

こないだの記事で、

 

江戸の人々は家も心もオープンであり、

鍵をかけなくても絶対大丈夫と言い切れるくらいの

信頼・仲間意識(?)の中で生活していたということ

 

について書きました。

 

家も心もオープン!だった江戸の人びと = 『逝きし世の面影』第3章より =

 

 

今日は、なぜこんなにオープンに&礼儀正しく

暮らすことができたのか、

 

ということを

私のわずかな知識と感覚をたよりに考えてみたいと思います。

 

 

 

 

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*今日の浮世絵は「江戸名所道戯尽 鎧のわたし七夕祭」(歌川広景、1859)

記事の内容とは関係ありません。人々の表情が豊か!七夕飾りが折れそうだ・・・

 

 

 

 

0、「みんなが楽しく過ごすための暗黙のルール」

 

 

ちょっとこないだの記事のおさらいです。

 

まず、

私が本『逝きし世の面影』から読み取った

江戸時代の人々(町民や農民たち)の特徴は、こんなかんじ。

 

・家が開放的(外から丸見え)で、

 家の中だけ、一家族だけで暮らしているんじゃなく、

 地域の人々といっしょに暮らしている感覚があった

 

・鍵をかけなくても何も盗まれない、と言い切れるほどの

 人々に対する信頼感と安心感があった

 

・好奇心旺盛で、それを素直に表現した

 

・素直に本音を伝え合える関係だった

 これを可能にしたのが、笑いとユーモアの感覚で、

 争いも嫌なことも最後は笑いで包んで許してしまえるおおらかさがあった

 

・とても礼儀正しく、礼節をもって他人に接していた

 

ということ。

 

この、【自我よりも他との調和を重んじる特性】は

現代でもよくいわれる日本人の特徴だけど、

江戸と現代では、実はけっこうその中身が違っている気がする。

 

何が違うかというと・・・

 

たぶん、「自発的」ということだ。

「強制されているわけじゃない」ということ。

 

他からこう見られるから、常識ではこうだから、礼儀だから、、

っていう「他人目線」からの基準じゃなくて、

 

「こう行動した方が、私もみんなも幸せに暮らせるよね」っていう、

(意識的ではないのにしても)そういう認識のもとで、

自発的にこのルールを守っていたんじゃないか、と思う。

 

この、現代と江戸の違いについては

最後にまた考えてみようと思います。

 

 

で、なぜこのような「暗黙のルール」が成立し得たのか、ということ。

 

 

 

 

1、島国だったことと300年続いた平和

 

「鍵をかけなくても、絶対大丈夫!盗まれない!」

という絶対的な信頼感のもとには

 

「人間はみな同じだ」という共感があった、ということが

この本に書かかれています。

 

これは簡単にいえば、島国だったということ

しかも鎖国していたということが

大きな原因ということは間違いない。

 

単純に、みんな日本人だから、ということ。

 

考え方や生活習慣が極端に離れている、というような

異国人との接触は稀だったわけで

人々の間に「人間はみな同じ」という認識が自然と育まれただろう。

 

ましてや、300年近く続いてきた平和の中で

国内での激しい争いも、他国からの侵略の危機も知らないとあっては

他人に対する闘争心や競争心よりも

同胞意識、親和感が育まれてきたはずであり、

 

異民族との絶えない闘争の中で生きてきた

大陸の人々と比較して

この頃の日本人はかなりの程度で平和的な性格だったのだと思う。

 

島国と平和な暮らしがもたらした

「人間はみな同じ」「仲間だ」という意識。

 

 

 

 

 

2、神道という背景

 

 

もう1つの大きな要因として

八百万の神々」を信じる、といった神道が背景にあると思う。

 

よく日本人は宗教心がないとかいわれるし

仏教やらキリスト教やらもとりいれているわけではあるが、

その根底には、神道があるのだと私は感じている。

 

神道は、宗教というより「道」つまり「生き方」みたいなものだ

というのが私の考えで、それは例えば仏教徒であろうとキリスト教徒であろうと

多くの日本人の根底に息づいていると思っています。

 

神道キリスト教や仏教との違いを

ここでえんえんと述べるのは遠慮しようと思いますが、

 

ひとつ言いたいのは

 

神道は「性善説」にもとづき

キリスト教・仏教などの一神教は「性悪説」に基づく、ということ。

 

先に一神教について述べると

根本的に人間は罪深い存在で

それゆえ、神に仕えること、祈りによってその罪をそそぐ

というのが基本である。

(「原罪」とかよく聞きますよね。)

 

翻って、神道についていうと

「神」は「God」とは全く別ものである。

 

「神」は、カミ=上、

「川上」という言葉のように、私たちの源流となっているもの・・・

「祖先」と言い換えてもいい存在である。

 

例えば、古事記にでてくる神々も

怒ったり暴れたりいじけたり反省したり、とても人間的だったりする。

 

また、人だけでなく山、木、川、花、水・・・あらゆるものを

八百万の神々」として敬愛していたわけであり、

 

そして、私たち一人一人の中にも「神」が宿っている、

という感覚なのである。

 

私たちが皆「神」だという認識だから、もちろん「性善説」。

何か悪いことをした人に対しても、

「あの人はもともと悪い人じゃない、何かきっとあったんだ」みたいな

考え方を日本人ってけっこうするんじゃないかな。(海外はわかりませんが。。)

 

この神道が、お互いを信頼し合うという意識の土壌となっているのは

確実にあるのだと思う。

 

 

 

 

 

3、現代人がこの「協力体制」を復活させることは可能か?

 

 

えーと、これの2つくらいでした。

私が考察できたのは。。。。。

 

そして、最後に。

 

現代で、この江戸の「みんなが楽しく過ごすための暗黙のルール」

を復活させることは可能か?について書いてみたいと思います。

 

江戸と現代、礼儀正しいという点では似ているようで違う点が2つ。

 

1つは、0で書いた「自発的(江戸)」or「他人目線(現代)」ということ。

もう1つは、江戸の人々は「本音を率直に伝えることができていた」ということ。

この2つはリンクしますけどね。 

 

でもこれは、興味深いなーと思いました。

だって、本音を伝えられない人多いでしょ、現代に。

そして「本音を言えない」って日本人の特徴みたいになってますでしょ、今。

(私もずっと「優等生」ぶってきて、全然できなかったからなぁ。。)

 

 

で、これを現代人ができるようになるには、

何が必要か。。。

 

一言でいいます。

 

「笑い」と「ユーモア」だ!!!

 

と。

 

 

もー、足りないでしょ。

現代の日本に・・・!!!

 

失敗しても、

嫌なことあっても、

ライバルに負けても、

言い争いしても、

 

最後は笑いで包み込んで

「ま、いっか」ってなってしまえるユーモア。

 

ってかなり乱暴にまとめてしまってますが、

まー簡単に言えばここだと思います。

 

じゃ、なんで現代の日本人がこんな真面目になってしまったのか?

っていう要因とか言い出すと、

自虐史観とかそこら辺もからんできて

卒論くらい長くなると思うので、やめときます。。

 

 

要するに、

私は江戸庶民のあっけらかんとした生き方、

笑いとユーモアが大好きです。

 

私は勝手に1人でこの性質を

現代に復活させようと思っております☆

 

 

 

 

 

 

 

うわー、最後ほんとうに乱暴なまとめ方ですみません・・・!!! 

 

真面目にてきとうにゆるく読んでくださいねこのブログ。。。

 

でもって少しでも「なるほどー」ということがあったら

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